遅ればせながら

廣瀬純さんの「闘争の最小回路」の前書きより。
第二に、政治経済エリートたちは、すべての物事の測定基準は「行為」のみに存するかのような迷妄をぼくたちに刷り込もうと企てる。資本家は、実際には労働者ひとりひとりの「力」を剰余価値生産にまるごとフル活用しているにも関わらず、「行為」だけにしか賃金を支払おうとはしないのだ。「力」と「行為」とのあいだの差額を算奪あるいは搾取を続けていくために、ぼくたち自身が行為/力のクリスタルとして自覚することを何が何でも阻止しようと企てるのだ。
ニート」とか「ひきこもり」などと呼ばれる人々が社会の寄生虫とみなされ、彼らに賃金が支払われないのは、賃金というものが「行為」を基準にすることによってのみ測定され得るという迷妄が広く流布しているからである。しかし、本当の寄生虫は、びた一文支払わず彼らの「力」を思う存分算奪している政治経済エリートたちのほうなのだ。政治経済エリートたちは、「ニート」とか「ひきこもり」などと呼ばれるクリスタルにインターネット回線を突き刺して、彼らの「力」を無料でちゅるちゅると啜り続けているのである。

もうひとつ「闘争の最小回路」のなかから(共同体メディア運動とボリーバル革命)
ナイーブに聞こえるかも知れないが、自律的共同体メディア運動において最も重要な賭け金は、まさにこの「喜び」にある。たとえ支配的なイメージとは別のイメージが問題になっている場合であってもそれが「自分自身の眼差し」によって生産されたイメージでなければ、要するに、自分自身が撮影したイメージでなければ、必ずしもこの「喜び」をもたらすとは限らないのである。自分自身で自己を表象することの喜び、すなわち、自己表象(auto-representation)の喜びは、必ずしもナルシシスティックで自己満足的な喜びとは限らない。それは、なによりもまず、自分のもつふたつの異なる力を同時に見いだす喜びなのである。すなわち、ひとつはイメージを見るという受動的な力であり、もうひとつはイメージを創造するという能動的な力である。自分で撮影したイメージのなかに自分自身の姿を見いだす際に感じられる喜びとは、自分自身をこれらふたつの力の織りなすひとつの最小回路として認識することの喜びなのである。そして、受動的な力と能動的な力とからなるこの最小回路こそ、あらゆる闘争の起点となる力のクリスタル、あるいは、闘争の最小回路なのである。

スウィーニー・トッドティム・バートン