お引っ越し

年末に空き巣被害にあってから、年が明け、ついに引っ越しをすることになった。杉並区をだんだんと南西へ移動してきて、今度は三鷹市に決まる。最寄り駅からは遠いし、杉並区を離れるのはあまり気が乗らないけれど、決めてはなんといっても広さと環境。
その物件の裏手にはだだっ広い畑があって、幹線道路沿いにはマックとか、薬局とかスーパーで、いずれもが「ファミリー層」を意識したお店になっている。私鉄の最寄り駅のほうに行くと、小田急が売り主になる古い団地があって、現在片っ端から新しく建て直しが進行中。どうやらとても古い団地らしく、既存の団地の佇まいと新築された団地とは天と地の差があって、不動産屋さんの車から見ただけなのに、気味悪い感情が湧き上がってきた。
団地といえば、自らが育った環境で、幼い時分から大学生としての生活を一通り団地で過ごしてきた。世間一般の団地のイメージはどうだかよく分からないけれど(昨今ではURがオシャレ団地、デザイナーズ団地を販売しはじめているが。。。)、「団地内」で生活していた自分にとっては、端的にいって「高度経済成長」を支えた男たちの休息のための基地で、そこで生まれた子どもたち(僕も含まれる)にとっては、いまり居心地の良い場所ではなかったという感想しかいまは残っていない。
なぜ居心地が悪かったかというと、いろいろ考えられるけど、とにかく親と子どもの距離が近すぎるのがまずダメだった気がする。単純に狭い団地だったからかもしれないけど、物理的にも、精神的にも妙に近い親子関係を育む環境が団地にはあった。(あくまでも自分が住んでいた団地で、かつ、自分だけの感想として。)
他には、わざとらしくつくられた児童遊園というか公園が団地敷地内に点在していて、その公園に関しても今思えば不快になる要因な気がしてきた。
公園ごとに、微妙だが確実に作り手から発信されるコンセプトを感じ取ることができて(例えば、ある公園にはどう猛な動物たちが、砂場へ頭を向けて配置されていたり、またある公園では遊具をやたら充実させたりと、「これらを使って遊んでなさい!」といったメッセージが今となっては押しつけがましく感じられる)、たぶん今考えてるからだけど、「遊んでた」んじゃなくて「遊ばされてた」という感覚が公園、団地に対してある。
で、団地住まいから抜け出して、3度目の引っ越しを予定している。
今回の住まいには、40世帯くらいが住んでいてその多くが若い夫婦で幼い子どもがいる家族らしい。自分もその中にこれから仲間入りしようとしてる。なんだか気持ちが悪い。住む前から居心地が悪い。そこに未だ「居ない」のに「居心地」が悪い。
そうだ、高度経済成長という小さなアカルイ未来を支えた団地からやっと逃げ出せたと思ったら、実際は自身ではなんらポジティブな希望を見出せず、「現実逃避」の手段として引っ越しをくり返す、その反復の歯車をまわしてしまっただけなのかもしれない。そうだ、きっと。
「労働」→「休息」→「労働」とエンドレスに続く資本主義経済のゲームに生真面目に参加してしまったばかりに、まんまと週5日の労働、その後2日の休息というよくできた管理体制にがっちりと捕まえられてしまっている。「いまここ」よりも優れて希望を見出せる場所があるはずだ、というどこからかやってくるメッセージに騙され、騙されている自分を容認し続ける時間と空間にどっぷり浸かってしまっている。
心の底からポジティブな感情になろうと、アカルイ未来を見出そうと、日々努力しているのだけど、結局そういった「前向き」な感情が出てくるそばからそれらを否定するコトバが先にやってきて打ち消されてしまう。
こんなこと書いている場合じゃないけど、「労働」→「休息」→「労働」の連関から本当に抜け出す現実的な解決策をこれから見出していかなければ、そう、きっと目も当てられない「生」が惨めに続いていくだけな気がしている。