アカルイミライ

自分の、と書く際に、「の」の後に続く何かは、はたして「自分」のものなのか。そもそも、「の」と、音に出してみるだけで、その「の」に続く何かは、誰か「の」所有するものであり、誰かが、「の」の後にくる何かに対して、「自由に」自らの意志を行使できるかのように感じられる。「の」の後にくるもの全ては「の」の前にあるものの支配を完全に受けているかのように。
「の」の後に、金銭、女、世界、などを置けば、「の」の前にあるものは、「の」の後のものを所有していることに関してある種の安堵感を覚えるだろうし、「の」の後に、貧困、不幸、死、などを置けば、「の」の前に置かれたものは、「の」の後のものに対し、恐怖を感じたり、絶望したりしこそすれ、決して、安堵感などはあり得ず、逆に「の」によって、「の」の前にある自らを呪い、「の」の後のものとの接続を、切断したいと感じ、「の」の後とは全く無関係であることを望みはじめるだろう。「の」の役割など認められない、「の」ごときに、「の」の後のものとの関係を決定付けられてしまうということには耐えられない、と。
「マモルはいったい、どういう人間だったのか。」
そう浅野の弟に問いかける、藤竜也は常に何ものかであろうと努め、あくまでも何ものかであることによって、「自分の生」を引受ける。オダギリジョーに向かって、「この薄汚い現実を見ろ。」とリサイクル工場で叫ぶ藤竜也にとって、「自分の生」という時の「の」は、不断に何ものかであることを強いてくる現実を辛うじて耐え得るものにするために、「自分」が「生」を所有していることを表すことで、「自分」はいかに変化しようが、「生」が揺るぎない「自分」のものとしてそこに繋ぎ止めてくれる役割を果たしている。
それに対し、自ら命を絶った浅野忠信は、常に何ものかであることを強いてくる「自分の生」を拒絶する。猛毒を持つクラゲを飼育していた浅野忠信は、クラゲをオダギリジョーに預けた後、本来、海水だけに生息する赤クラゲを真水という環境にも適応させるように、指示する。海水「の」生き物であるはずのクラゲを、「の」を間にしてある「海水」と「生き物」の二つを、引きはがすように、「自分の生」の「自分」と「生」をどこまでも別のものとしてあるということを、示そうとする。「自分」と「生」は異なるものなのだ、と。「自分の生」といったようなものなど、どこにもあり得ず、「自分」と「生」は別々に存在するのだ、と。
「自分の生」としてこの世界に存在することにこだわる藤竜也と、「自分」の「生」という形で、「自分」を「生」とは切断した形でしかこの世界に止まることができず、自ら「死」を選ぶ浅野忠信の間を行き来する存在としてこの世界にあるのがオダギリジョーだ。
 刑務所にいる浅野を訪れ、20年でも30年でも、浅野が出所してくるのを待ち、また一緒に何かやろうと言うオダギリだが、そんなオダギリの発言を、最も忌み嫌うものとして、オダギリを退ける浅野。刑務所に入れられる以前に、「行け」と「待て」というメッセージを伝えるジェスチャーを、オダギリに教え、自殺する際に「行け」の身ぶりにおいて死んでいった浅野は、20年後や、30年後に「明るい未来」が訪れるであろうことを望んでしまったオダギリに対し、もちろん、20年後や30年後に向けて「行け」と指示したのではなく、「行け」と「待て」の中間において、今ここにおいてどこに向かってでもなくただ「行け」と言っているのだ。このように考えた時、「行け」と「待て」の「待て」の方を選択し、「この薄汚い現実」で「待て」というメッセージを送り続けていたのは藤竜也だ。
リサイクル工場の屋上(黒沢清の映画において常に重要な場所のひとつ。この映画においてはどこにも「行け」ず、どこにおいても「待て」ないような中間地点としてある。)で、オダギリは「ここからじゃ何も見えない」といったようなことを言い、「行け」と「待て」の間にあるかが故に、「ここ」(此岸、生、現在)も「向こう」(彼岸、死、未来)も「何も」見えない場所で、「向こう」側を見ようとするテレビアンテナを壊す時、オダギリは自分自身にとって決定的なある種の覚悟をしてしまう。
その「覚悟」とは何か。それは「行け」と「待て」に挟まれた場所で、どこにも「行け」ず、どこでも「待て」ないという、能動的な受動性と受動的な能動性を一時に保持しようとしているため身動きができなくなる場所をどこからでも見ることができる「覚悟」だ。「自分」の為に未来はあるのではなく、いまここに、至る所に未来はある。ただし、その未来は「自分の未来」ではなく、あくまでも「自分」と「未来」としてあるだけだ。つまり、そういったある種の「覚悟」をしてしまったオダギリとは、「自分」と「未来」の「と」と言う場所において存在している。そしてその「と」と言う場所だけにぼく達の「アカルイミライ」はあるのだ。