「バレンタインデー」ゲイリー・マーシャル


ゲイリー・マーシャルより妹、ペニー・マーシャルの新作はまだやらないのかなあと待ちわびる。近年のアメリカ映画でお金をかけてそうなものの傾向のひとつとして主人公が誰なのかさっぱり分からないまま映画が終るということがあるけれど、この映画もまさにその傾向をたっぷり抱えている。ジェシカ・アルバアシュトン・カッチャーアン・ハサウェイジュリア・ロバーツジェイミー・フォックスなどなど有名俳優たちがぎょうさん出演している。でも誰の物語か分からない。ジェシカ・アルバアシュトン・カッチャーの二人が中心人物のようにも思えるけれど、果たしてどうなのか。登場人物のそれぞれがそれぞれの悩みを抱えながら恋愛に勤しむ。だれけども各々の組み合わせ同士には繋がりがほとんどない。各シーンはツーショットで撮られるのがほとんどの流れに対して、かろうじてそれぞれの空間を繋ぐ役割を担わされたスポーツキャスター演じるジェイミー・フォックスという存在がいるにはいる。
バレンタインデーを迎えたLAの朝。生花市場にバレンタインデーに相応しいネタ探しに取材に行くジェイミー・フォックスアシュトン・カッチャーに話を聞いてテレビカメラで写したり、引退を表明するアメフト選手のPRを担当している女性と知り合ったりするところはそれぞれのツーショットの空間を繋げているようにも見えるけど、結局最後までバラバラの二人同士の物語が並行して語られている。ジュリア・ロバーツに至ってはイラクからの帰りだろうか、女性大尉として帰国中の機内でのシーンがほとんどで。最後のシーンで誰の母親かが判明するが、気が付けば息子の部屋で抱擁しているわけで、とにもかくにも各ツーショットはバラバラに切り離されたままだ。
切れ切れのエピソードに対して観客は切れ切れの感情移入をしていけばそれでいい映画なのかもしれない。だけどなあ。ほとんど何もないんだけど、こうして想起し始めると、この映画で起きてることって、アメリカ人は相当焦ってるっていうことがバレバレなんじゃないかなあ。LAという大都会で住む人々はPR会社の社員や花屋や派兵帰りの大尉やスポーツキャスター、サラリーマンといった働く人のバレンタインのエピソード(人生)をバラバラにしか提示できない。要するにバレンタインデーだけがもしかしたら、登場人物それぞれの立場の誰か一人には感情移入ができそうだからしておこうと。でもバレンタインデーを過ぎてしまえば、観客にはうまく感情移入ができないほど、各々のエピソード(人生)はあまりにもバラバラに異なりすぎている、と。
誰もが同じものを見ているはず、という前提(そもそもこの前提自体が最も怪しいわけですが)が明確に崩れさってしまっているがために、誰もが同じものを見ているはずだ、という焦りを慰めてくれるものとしてこの映画とバレンタインデーはあるように思えてくる。
でも確認しなきゃいけない。誰もが同じものを見ているはず、というかすかな期待を持ちつつも、全然違うものを観客それぞれが見てしまう、というのが映画だったわけで、だからこそ、映画体験はそれぞれにとって貧しくもあり豊かでもあり続けてきたのだけど、こうなると、「誰もが同じもの見なきゃ」っていう焦りばかりが前面に押し出されていて、もう別に映画じゃなくていいじゃん、って気がしてくる。
誰もが同じものを見ているはずはない、というやっぱり当たり前のことを手放してしまったら、あとはもう、専制政治の到来を待つしかないのではないか。
アン・ハサウェイは「レイチェルの結婚」以来、やっぱりアバズレ女な感じが実はぴったり嵌るんだなあ。